とけないこおり

好きなものへの気持ちを素直に

トリミングの解

結論はないし、人と話してなんか違うなあと思ったらこそこそ書き換えるかもしれない。

 

■アイドルをどう受け取るか、切り取るか、発信するか

「アイドルに対する切り取り方の差異」というのは、特定の誰かに限ったことではなくそれぞれのアイドルにあることなのだけれど、今の担当に関してはその差異が顕著で、かつ他者の切り取り方に対して合わないと感じている人が多いように思う(この話は後述する)。

これまでの担当だった櫻井くんや相葉ちゃん、有岡くんに対して、フォロワーとここが素敵だね、あそこが素敵だねとキャッキャ話していた時よりも、今の私は少し気を遣って発言しているのは明らかだ。このように感じるのは私自身の変化も要素としてあると思っている。社会人という立場や年齢を気にしてることはもちろん、昨今の性差をとりまく意識改革にあわせて自分のこれまでの当たり前をスクラップアンドビルドする過程にいるので、すこしでも気を緩めると前時代的なわたしが顔を出す。それを防ぐために少々気を張ってつぶやくことは増えた。

あるいは、今応援しているグループを応援し始めたばかりのころにお話させていただいていた方に、次第に距離をとられた経験がある。理由を考えてみて行きついたのが「相手にとっての矢花黎像と彼に対するまなざし」を私は受け入れられたけれど、「私にとっての矢花黎像と彼に対するまなざし」は相手が受け入れ難かったということだった。私のつぶやきが他の方よりも違うことを言っているとか、やたら尖っているとかは自分ではわからなかったのだが、自覚できない要素…自分の言葉やネット上のふるまいに人を不快にさせる要素があるのだと自省せざるを得なくなった出来事だった。*1

と、このようにこれまで書いたようなことが重なって、アイドルに対する発言に少しだけ気を遣うようになった。同時に、少しだけタイムラインを俯瞰するような気持ちも持ち合わせるようになって「量産か否か」以外にも色々なオタクがいるなあと改めて思うようになった。そのうえで考えたいのが、担当に対する切り取り方やまなざしの差異が生まれる要因である。

 

■「矢花黎」とファンの受信・発信

矢花さんは不思議な人だ。Twitterでタグを作って双方向のやりとりを図ろうとしたり、ブログに自分の脳みそをひろげて、それに対するファンの考えや感想を求めて何かを得ようとしている。また、我々ファンの描く各々の「矢花黎像」と彼の認知している自己との乖離を埋めようとしている。こんなにも人間である自分を表に出すアイドルはこれまでにみたことがない。彼のアイドルとしての営みはもはや壮大な実験であり、痛みを伴うもののように思えてならない。そして、彼から発信された内容にどのように反応しているかに関わらず、ファンはすでに実験に巻き込まれている。

アイドルを好きな人、応援する人ひとりひとりに個性があるのだからカテゴライズするのも失礼な話かもしれないが、「矢花担」に関しては他のアイドルよりも細かく分類したうえで同じ所に属する者同士でも、各々の「矢花黎像」に乖離があった場合に互いを受け入れられないケースが多いのでは?と感じる。これは何かの統計を取ったわけではなく、感覚的なものにすぎないが。

「バンドマンの彼が好き」/「アイドルの彼が好き」

(「元々バンドが好き」/「元々ジャニーズが好き」も近い)

「彼の発信に見える形で返事をする」/「見える形で返事をしない(すべきでない)」

「リア恋としてみる」/「リア恋としてみない」

「アイドルと対等にいようとする」/「アイドルとファンは対等ではない」

「結果を出すために数と金で応援をする」/「数と金にまかせたムーブメントには賛成しかねる」

「彼(ら)をおもしろコンテンツとして取り扱う」/「取り扱わない」等々…

じっくり考えればまだまだ色々ある気がする。1、2点目以外は比較的他のアイドルに対しても言えるような気がするけれども。

こういった「応援や受発信のスタンス」である程度棲み分けをしたうえで、矢花さんの発信にファンが表立って反応する場合、次に問題になるのは「行動の結果表出するものの内容(ブログの感想文等)」だろう。応援するスタンスはある程度同じ方向性の人間を見つけられても、個人としての生い立ち、背景が異なる以上は表出する内容まで方向性があうわけもない。所詮ネットがなければ出会っていない者同士、顔を合わせて話をしたこともなければ尚更、「リア友」との同じようなやり取りよりも受け取った文字列に対して抱く感情は希薄になり温度感は低くなる。

彼の発信に対して、彼の意図する思考のやりとりをしようとするとき、他人との「矢花黎像」「まなざし方」の違いが可視化される。つまり、彼が自己とアイドル像の乖離を埋めようと発信することで、色々な人間の思考が表舞台に引っ張り出され、それが(応援のスタンスによっては)ファン同士で受け入れがたいものになることもある。他の人を応援していれば表に出す必要がなかった要素さえ、陽のもとにさらさなくてはいけないケースもあり、スタンスだけではない根本的な人としての違いが可視化されてしまう。

双方向性のあるやり取りの中でファン側の打ち返しによって生まれるものは様々だが、彼の場合は他のタレントとやりとりした時の”それ”よりも機会が多く、ひとそのものをむき出しにした結果であることが多い。私たちはサンプルを差し出すのか、否か。サンプルの取り扱いを見守ることが苦しくないか。他者のサンプルを受け入れられるのか。彼の要望(意見・意志を表に出していこうとファンに促すさま)に応えようとすると生まれる可能性がある不和がそこに横たわっている気がして、少しだけ表出におじげづく自分もいる。

とはいえ私は、矢花さんがくれる機会を使って思考を少しずつ表出させながらも、他人の思考や視点に触れて世界が広がるのを感じる。それを「おもしろい」と思っているがゆえに、より深く思考して苦しんでいる人たちや他人の思考に触れて疲れている人たちを見ると何とも言えない気持ちになる。他人の思考や視点に正解も不正解もないから、ああ君はそうやってトリミングしたのね、素敵ね、という気持ちでいることで自分を保っている。ネットのノリで面白がる勇気もなければ、哲学的に深く深く掘り下げる気合もない私は、結局どっちつかずでいて、俯瞰している「ふう」を装っているのだ。もしかしたらとてもずるいのかもしれないが。

言葉は劇薬。ゆえに思想のサンプルが散らばったタイムラインも劇薬だらけの棚である。思想の深淵にのまれないように、その見えている池に身投げだけはしないようにしながら、様々にちらばる劇薬ともうまく付き合えるスタンスでいるというのが私なりの解かな、と秋の夜に思考を巡らせるのだった。

*1:この件のようにネットの友人との距離の詰め方が下手な自覚はあるし(急に距離詰めがち)、先程の話を持ち出しているのも良く感じない人がいるだろうから、お前そういうとこだぞwwwと思われていそうでややビクビクしながらこの話を書いている…(念のため言っておくと攻撃の意図はなく、読者の方が飲み込みやすいように説明的にこの話を持ち出しているにすぎないし、発言する時に少しだけ内省するクセがついたのはこの方のおかげなので感謝している部分が大きい)

#異担侍日報侍ふ vol.23_210922 をうけて

 

私はらじらーにメールを送らなかった。

理由はいろいろある たとえば

「どうせ誰かがプッシュしたい子が表に出るんだろうし、送ったところで意味ないでしょ(普段聞いてないからどの程度本気の企画かわかっていなかったこともある)」という諦め

「私より他のひとのほうが熱量もった文章を書いてるよね」という比較 等。

仕事で忙しいから…と時間的リソースがないことを言い訳にしたのではなく、私は自分自身の頭の中でそういう会話をして、行動を起こさない選択をした。

 

これはまた種類が違う話だが…昨日だって中秋の名月だということは知っていたけれど、Twitterの中にある月の写真こそ見たけれど、どうせ曇っているだろうとか何かしら理由をつけて窓の外を見やることもしなかった。

 

起こしてよかったと思ってもらえるような行動

あなたが起こしたような生活の中での行動

そういったものがここ数日自分自身の行動と重なることがなかった。

 

読者の方の誤解をうまないためにひとつ綴っておくけれども、私は「感謝されなくて悲しい」「同じ行動をとれなくて悲しい」という感情を持ったわけではなかった。前者のような見返りは求めるものではないと常日頃思って応援しているし*1、彼と自分とはまったく異なる感性の人間だというのは随分前から感じていることなので違ったところでいつものことである。じゃあ何でこんな気持ちになっているんだと自問自答しても、なんにも出てこない。

形容詞ひとつでは言い切れないことがないまぜになっているのだから、「なんて言ったらいいかわからない」感情に無理やり名前を付ける必要もない。ただ少なくとも、ここ数日の一連の流れ(特に、らじらーで7MEN侍が取り上げられたこと、矢花さんがレスポンスとしてDash!!!をいち早く投稿したこと)の反動で、ろうそくにぽうっと火が灯ったような気持ちになっているのは確かだった。メラメラとした炎でもなく、パチパチとした焚火でもないけれど、はっきりとそこにある灯だ。

それは冒頭に書いた「諦めという感情を持った私」のケツをたたくには十分なものだった。やってみないと分からないって、いつも7MEN侍が教えてくれてることじゃない。当の本人たちがあれだけ発信してくれてるのに、次につなげようってもがいているのになんで受け取り手の私が勝手に諦めてるんだよ。まだはじまったばかりでしょうが。火がついた私はまっさらなハガキを手に取っていた。最近はじめたハガキ送付。これまではやったことなかったけれど、サマステ後の7MEN侍のブログの言葉に触れた後、Twitterの #セブンメンハガキ タグをみて、これならできそうだと思ってはじめた援護射撃。描いてみたら意外と楽しくて、無理のない、送りたい範囲で送っている。今回だって、今からだって遅くないはずだ。

 

そして、私は私の好きを全力で叫ぼうとも思った。それが他の人と比べて上手とか下手とかどうでもよくて「7MEN侍のことが好きって言ってる人たちっていつも楽しそうだね、幸せそうだね」って思ってもらえるような、そんな伝播の根源でありたいという感情である。

これは、矢花さんもブログに書いていたような第3者への配慮にもつながる話だと思っているのだが、この世の中にはたくさんのノイズにあふれている。何のうまみにもならないノイズが。特にネットなんて最たるものだろう。見たくない話題、縁起でもないサジェスト、他のグループの動向…。きれいな気持ちだけで立ち向かおうとすると心が折れそうになったり、心がどす黒いものにまみれて配慮できない”あちら側”に行きそうになったり、ということはしばしばある。悲しいことに「幸せになって欲しいから*2」目の前の好きより他へのヘイトを叫びたくなることがあるのだ。でも、そんなの結局他人にとってのノイズになり下がるだけである。どうせなら7MEN侍を全く知らない人にとっても気に留めてもらえるような、耳を傾けたくなる音のような存在であったほうが得なこと、快なことは多いだろう。7MEN侍というムーブメントに似合わないことはしたくないもの。このような「ある意味当たり前だけれど実践が非常に難しいこと」をぐるぐる頭の中で考えては、自戒であり教訓でありケツイのようなものを矜持として一つ心の片隅にかざった。

 

 

援護射撃、追い風、サポート、縁の下の力持ち、アシスト、後ろ盾、助太刀

この世の中にはファンを「チームメイト」たらしめてくれる言葉が沢山ある。

私はあなた方を消費してばかりで、与えられていることがあるとはとても思えない。でも明日をもっと楽しくいきたいから、今この瞬間を楽しくさせてくれているあなた方がもっと新しい場所に行けるように、力添え出来たらなと思っている。

おこがましいのは重々承知の上。私も、ムーブメント・7MEN侍の動力でありたい。

 

 

さいごに

これはオタクが頑張らねばならないとかそういうことを言いたいがためのブログではない。「せねばならない」圧力とは恐ろしく、好きの感情を食い物にして義務感とか疲労を生み出し、オタクを頑張れなくさせるからだ。頑張れないことは罪ではないのに、頑張れない自分が嫌で、好きだった対象から気持ちが離れていくという悲しいケースもある。趣味なのだから、自分が楽しめる範囲で応援すればいいというのが私のスタンスであり、それを今後変えるつもりもない。

でも、7MEN侍のこと応援していて楽しい瞬間とか、ああしてよかったこうしてよかったって瞬間はとにかく沢山ある。このグループのファンやってて、悔しいと思ったことがないとは言わないけれど、自慢のグループ!最高!私って幸せ者!って周囲に言ってまわりたいことは毎日のようにあるのだ。せねばならないのではなく、したいからする。心にともったろうそくの灯は紛れもなく「応援したい」という無理のないまっすぐな感情だから、その灯りが導いてくれる方に今はゆっくり歩いていこうと思う。

*1:感謝されて嬉しい、と喜ぶのはいいけれどそれがいずれ大きな結果や感謝の強要とかになるとよくないよね、というはなし

*2:当の本人たちを不在にしてオタクのエゴがとても強いけれど、ひとつにはデビューやそこに向かっていく動きを指す表現が行きつく先に”幸せ”という言葉があると理解している

《J31gate第20回 テーマ『色』》短歌メモ

発行おめでとうございます。

第11回から参加させていただいているこの企画ですが、今回は第20回というキリのいい数字!普段同時に掲載されるアイドル名が今回は伏せられているというのも面白いですね。そういうわけなので、ここからは拙作について誰を何を思って読んだのかネタばらしと解説です。

103で色の三原色、104で光の三原色をイメージしています。

 

 

 

 

103:白で塗る 常識が覆いかぶされどなお白で塗る思考のシンカ

私が「メンカラ白」を詠む時点でばれてしまっている気もしますが…

彼は自分の思考をブログに沢山書いてくださるので、最近の短歌はそこから膨らませて作ることが多いです。今回は8月4日のブログから、テーマにあわせて彼のメンバーカラーを詠みこみました。

「常識だと思っていたこと」がそうではないと受け止め始めた世間。常にアップデートが必要な現代。そんな時代の流れにあって、彼は受け手の感想を求め、自身の世界を拡げてもらうことを求めています。

色の三原色、絵の具の「白」は不可逆的存在で、少しでも何か混ざろうものなら、もう元の真っ白には戻れません。白い絵の具に、彼の成長してきた環境やそばにいた人が影響を与えることで「彼だけの白色」ができています。もちろん、安全策としての常識が足かせになったり白のバランスを崩すこともあります。そんなとき、時点時点で彼自身が自分の思考を進化/深化/新化etc…させる=白色を上から塗ることで、彼は他の色を受容しつつも彼だけの白色を更新しているのではないかな、と思い詠んだ歌になります。もちろん、受け手である私たちの表現や発信も受容の対象に含まれていると考えます。(「他の色をなかったことにしない」という観点で、あえて混ざりけのある白になる絵の具を題材としました)

イメージしたのは、7MEN侍の矢花黎さんでした。

 

104:人となり・雰囲気などを数値化し詰め込んでみたRGB

色をテーマにした時に、「特定の人を詠まない短歌」にはカラーコード(#と6桁の英数字であらわされるアレです)かRGBをキーワードとしたいなと考えていました。結果的にメンバーカラーについて詠む短歌になっていましたね(RGBのルビに「メンバーカラー」とふるか迷ったのですが、この31文字でメンバーカラーの説明になるなあと思いそのままにしました)。こちらは103の短歌と異なり光の三原色をテーマとしています。

他の色の表現法としてCMYKがありますが、こちらはインクによる光の吸収による表現になります。調べたところ人間の目にはRGBのほうがより鮮やかに写りこむとのことだったので、「ペンライトの光に囲まれ、TV画面、タブレットで見る電子書籍の向こう側にいるキラキラとした彼ら」を表現するにはRGBで詠みたいな、と思いこのような歌になりました。カラーコード短歌、やりたくなっちゃったな。

 

今回は読者の想像力も試される、興味のあるグループ以外の短歌も目に触れるという意味で、色々な作品をきちんと咀嚼できる素敵な機会でした。次回以降も楽しみにしております(表現の引き出しを増やすぞ~…🔥)

モボ朗読劇 怪人二十面相 観劇メモ・感想

※久方ぶりにビール(水曜日のネコ)を飲んでいるので支離滅裂だったらごめんなさい

※最後のほうとか大分迷子。

※極力まっさらな状態、自分の思いに素直なまま書きたいので6/30矢花さんのブログは未読の状態で書いた。思考の整理のためにフォロワーさんと議論することは少しだけおこなった。

 

本記事は6月下旬に品川・ステラボールで催された標記朗読劇について、観劇しての疑問点、それに対する個人的な考えや要素をまとめておくものである。なのでひどくまとまりがない。

私は普段本を読まない。読書せねばと思うものの習慣がない。読書で没入する感覚は小学生くらいにおいてきてしまった。だが大人になって…社会人になって周りを眺めていると、お勉強ができることももちろん大切だが、教養のある人というのがとても魅力的に映るようになった。自分に教養がないと感じるからである。

そんな人間が書くことなので、薄っぺらいかもしれないし、ありのままをうけとめただけになるのかもしれないのだが、それが私の感じた二十面相のひとつなんだと思うことにする。そしてこの劇は、人が見て感じたことやこういったアウトプットの違いに対して人が何を思うのかさえも問うている気がする。(そして矢花さんのブログ、面はいくつあるのか、という話に戻る…)

 

【脚本について】

てっきり原作の一つをなぞっていくような舞台だと思っていたが、抜粋にサンプリングに抄録に、あらゆる表現で引用に類することが行われていた。おそらくこれは脚本家の鈴木さんが表現したい明智/二十面相(/小林)のキャラクター像のあぶりだしであり、文学の論文の一部を読んでいるような…朗読劇スタイルで意見を述べているようなそんな感覚である。(本を読まない人間の私は、ここで少し安心した)

演者にはそれぞれの2つの役があてがわれている。「アマチュア推理作家/明智小五郎」「推理小説ファン/小林少年」「文芸評論家/江戸川乱歩」「江戸川乱歩研究家/怪人二十面相」……劇中は役を行ったり来たりしていて、とくに前者の役を演じているシーンについては読書会を覗いているような気持ちになった。

 

【冒頭のセリフに関する考察】

男が「明智は二十面相で、二十面相は明智」とつぶやきながら登場する。そのあとこのようなセリフがある(要約)。

「あの男はあなたであり私であり、彼であり彼女であり、誰かであって誰でもない。それは電子が粒子であると同時に波動であることを思い起こさせる。あの男は永遠に瞬間を生き続けるのである」

前半部分はなんとなくわかるような気がする。ひとりのなかにある複数の顔。あるいはまったく違う人間同士でも(それが嫌いあう人同士であったとしても)本質的に似てしまっているようなこと。陰陽のバランス。中庸。この世の中にある「バランス」と「二面性」のさまざまと捉えた。ただ電子、粒子、波動ってなんだ???

こういう時は文明の利器、仮想空間にある偉大な英知に頼るに限る。「電子 粒子 波」とGoogle検索をかけると、「電子を細かく見ていくと粒子なのか波動なのかという議論がずっとなされてきた」という話がでてきた。なるほど物理化学か(履修していない)。

「電子だけでなく,いままで粒子であると思っていた物質は一般に波動としての性質を持っている。そのような波動を物質波という。物質波の波長が十分短ければ,粒子と見なして差し支えない。この物質波の考え方は,光量子の裏返しとして, 1923年に de Broglie によって提唱された」

だからこれも…粒子と波動の関係性も前段と同様対立ようにみえて実は近しいところにあるものどうしだった、という話の一例としてあげているのだととらえた。

 

【2つの「別れの歌」「練習曲作品10-3 (ショパン)」】

二十面相をメインに演じる栗原さんと、明智をメインに演じる矢花さんが同じ曲を歌う。前者は情感たっぷりに、後者は低音と高音を交互に響かせる点が印象的。

・なぜ「別れの曲」なのか

「別れの曲」は映画の邦題から呼ばれている通称で、元々はただの練習曲番号がタイトルである。単純に数々の面との「別れ」あるいは、どこにいったか分からない本来の自分との「別れ」のイメージで使用したのか、映画「別れの曲」からなにかインスパイアされたのか。ここは考察が深めきれていない。 

・なぜ歌い方が違うのか?(複数の「面」を表現する歌ならばどちらも同じ歌い方になるのでは)

1回目の二十面相の歌を聞くと「己の顔さえ忘れて」に非常に重みを置いて歌っていたように感じられた。私はこの時の曲は「変装していないむき出しの二十面相としての胸中」と感じた。あるいは「変装に疲れた二十面相」。

2回目の明智の歌は高音と低音の往来がとにかく激しいのが印象に残る。演者本人もそんな二面性を楽しんで歌っているように感じられた(高音の時は特に意識的に小指を立てている。低音の時もたっていたので深読みのし過ぎ、本人のクセかもしれないが…)。明智は複数の顔を持つこと、変装することに疲れを感じていない、面白がっていられる、という表現とうけとった。

 

【死のイメージについて】

前半に明智怪人二十面相にむかって「お前のことをピストルで撃てる」と言っておきながら(そのうえ二十面相が人を殺さないのには感心する、自分だったらできるかどうか…とも語っている)、後半の二十面相との対峙のシーンでは「明智は「死」のイメージを排除している、それが自分との違いだ」と二十面相に言われている。そのうえ明智は火薬からは逃げる。これはどういうことなのか?

まず考えられるのは前半の話(人を殺せる明智)がただの虚勢であるということ。あるいは「死」のイメージの排除とともに「自分の生」に対する執着がものすごく強いのではないかということ。そして、仮に【冒頭のセリフに関する考察】でも書いたように2人の存在が陰陽の関係であるとするならば、片方が消えてしまえばもう一つは存在しえないということであるから、「自分の生」に対する執着が強い明智は、陰陽の片割れである二十面相を殺せないことになる。

 

【奥の手って結局何?】

明智はこのようなことを舞台中発している。

「二十面相に奥の手があるなら僕にもそれに劣らぬ奥の手がある」

単純に舞台上の表現を受け取れば、二十面相の「奥の手」はあらゆるからくりや仕掛けを使うことで、明智の「奥の手」は後半にでてくる影武者、すり替えのことなのか?と思うが、それ以上の何かがあるのではないかと思う。

最後のシーンで二十面相は火薬を使い、「死」を選んだととれる表現がなされている。二十面相の奥の手とは、常に「死」をイメージし、「死」へ飛び込む勇気があることなのか?(あらゆる変装の手段のうちの一つを捨てる勇気)

逆に明智の奥の手は先程から執着あると感じている「生」が奥の手なのだろうか?(あらゆる変装の手段を使って永らえてやるという意地、意志)

 

【冒頭と最後のセリフ】

非常に似たセリフが冒頭と最後に出てきて、演劇全体を挟み込んでいる。冒頭では遠藤平吉、最後には明智小五郎の名前が登場するが、それ以外の部分は同じセリフ。このシーンの矢花さんは一体だれを演じているのか。

劇中に矢花さんだけでなくあらゆる演者が二十面相を演じるため、冒頭・最後のシーンの発言者が明智である可能性も二十面相である可能性も十分に考えられる。以下の表のように。

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どれが正しいとかはないと思っているのだけれど、それぞれのパターンで登場人物の状況がどのように描き出されるのか、個人的な考えを記しておく。

①が一番スタンダードなとらえ方だと思っていて、私自身最初は発言者の組み合わせはここだろうとおもった。明智は二十面相に、二十面相は明智に対して、お互いがいなくてはあらゆることが成り立たなくなる、遠くて一番近しい存在と考えている、そんな思いの表出ととれる。

②の場合は発言者が両方とも明智になるが、冒頭はライバルである二十面相に対する問いかけ、最後はそのライバルが「死」という奥の手を使ったあとの独白になる。最後に関しては陰陽の片割れを失った明智が、片割れである自分自身の自我を保とうとして発している言葉に思えてくる。

③だとすると冒頭が二十面相自身の自己紹介になり、のちの別れの歌で「己の顔さえ忘れて」いる二十面相がより強く浮き出るように思う。①と③のパターンの場合、最後が二十面相の独白になるから、途端に前段で「死」を選んだようにみえた二十面相が「生きているかもしれない」状態が示唆されて、「明智が片割れだけになってしまった」という虚無感よりかは「自分の生に執着のある明智が存在するのに必要な片割れがいる」安心感が訪れる。

④のパターンだと、発言者が話の主語になる。二十面相は自己紹介によって明智に対して宣戦布告をしているようにとれるのに、明智はそうではなくて、二十面相の「死」の表現の後だからかとにかく不安定さや喪失感が際立つのは私の気のせいだろか。

最後の笑いにフォーカスをあてれば、①③は死んだように装ってみせた二十面相の勝ち誇った笑いであり、②④は片割れを失った明智がバランスを崩した結果の狂いではないかと考える。

 

【「最大の敵は最高の理解者」というワード】

SPOTムービーにもあったこのワードの意味するところは?

つまるところ自分自身が甘くも厳しくもなれる最大の敵であって自分が自分のこと一番よくわかってるよねという話にもとれるし、対立しているような近しい人(ライバル)が自分の写し鏡のようなものなのだから、しっかりと向き合うべきなのだ、という話にもとれる。自己実現の話?

 

【誰かであって誰でもない】【読書とは】

冒頭の明智のソロの歌詞に出てくるこの言葉。そして、舞台終盤に語られる読書についての表現「いずれにせよ読者がいる限り 明智も二十面相も永遠に瞬間を生き続ける。…乱歩の手を離れ 明智も二十面相も、個々の読者が新たに生み出す…読書とはそういう作業なのである」

あの舞台を見た人間の数だけ、脚本についても、登場人物そのものについても、舞台上のあらゆる表現についてもすこしずつ異なる解釈が生まれている。そのどれもが自分にはない視点を含んでいるから、読書会のように感想が語られているさまをみるのは大変興味深い(だからこそ極力まっさらでいたくて、この記事を書くにあたり他人の影響を受けないよう努力はした)。だからこそ「解釈」そのものこそ、個々が新たに生み出した登場人物の余生たる「瞬間」なのだと思う。

余談;個人的にはこれを読書ではなく、主演の矢花さんの本業であるアイドル活動に置き換えた時にも当てはまるような気がしている。なにかのパフォーマンスをしたとき、それぞれのファンがあらゆるツールを用いて表現するけれども、そのどれもがその瞬間を生きていた矢花さんであって、一方でそのどれもが本当の矢花さんではない、というように。

⇒それは果たして矢花さんなのか?そして決定的に違うのは彼が本の中の登場人物ではなく、現実世界の人間として存在するということ。各々のファンの中で瞬間を生き続ける矢花黎と、本人の表現した一番自分に近い矢花黎には乖離が少なからず生まれるわけで。先日のブログではこれを防ぎたいって話をしていたのか…?整理はできていない

 

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今回はあくまでもセリフや発言に重きを置いて、自分の中で考えを深めたいところを記していったのだけれど、朗読劇ゆえにシンプルな舞台ながらも、照明による演出、場面転換、なによりも音による空間づくりに圧倒されました。見たことのない楽器。何を表現したくてどのような音を求め、何を用いたのか。演者の声のサンプリングを用いた頭がイカれそうなあの時間も麻薬のようで最高でした。

演者の皆様4名だけでなく、朗読・歌唱による「発声」以外の音を作りこまれていた大嶋さん、あさいさんのお二方、照明、衣装等の舞台スタッフをはじめとした劇場スタッフのみなさまへの敬意をこめて、駄文ではありますがしたためました。今後もゆっくり咀嚼しながら、しばらくの間は生活の中で劇中歌を脳内再生して過ごすのだと思います。私の中で、彼らの瞬間を生き続けさせるために。

#異担侍日報侍ふ vol.7_210602 感想

もう次の更新日なのに先週の話をその日の朝の通勤電車で書きはじめているよ笑

今回の話は割と考えやすかったし、自分にも思い当たるところがあったから割とさっくり書けそう〜♪とか思ってたらこれですよ。スケジュール能力がない。まあそれはおいといて。

 

矢花黎という人間がアイドル(ジャニーズ)としてのあり方を模索していた時期に、「これだ」と決断をくださなかった結果が今となっていることが、所属グループである7MEN侍のオタクとしては胸に来るものがありまして。

それこそ2つ前のブログに書いたけどなんとなくこれに近い話かなって。

「成功/失敗だと思える状況」とさきほどからしつこく書いているのは、時点が変われば見方が変わるからだ。(中略)(努力は)数年後数十年後の自分が、過去に戻れたらと絶望することがないように、現在地の自分から未来に向かって届けられるささやかな贈り物のようなものだと思っている。 

その時その時の100点満点を出すんじゃなくて、あとから振り返ったときに80点取れていれば御の字だよね〜という感覚。

せっかくだし文中の努力について補足すると…私は大学受験で報われなかった経験があるので「努力は必ず報われる」なんて1ミリたりとも思っていません。この努力はあくまでも「正しい方向性の努力」。あとから蓋を開けないと正解はわからないので、勝ち組の言葉だなあと斜に構えて受け取っています。

ただ、「努力は必ず報われるわけじゃないけど、不安を消すには努力しかないよな」「成功してる人はみんな努力してるし、努力しないと土俵にも上がらせて貰えないよな」とは強く思っています。

運命って未だによくわからないけれど、「努力や本人の日々の行動が少しずつ作用して形作られていく結果論」なのかもしれないな。

 

わ、そんなこんなで次の更新の5分前になっちゃったよ。今週も楽しい水曜の夜がやってくる。

(7MEN侍を好きになったのは運命かな、宿命かな。偶然かな、必然かな。)

 

#異担侍日報侍ふ (矢花さん)vol.6_210526 感想

 

このブログ、矢花さんのブログに対する感想をしたためるブログになりつつあるのでは…(まだ2回目だけど)矢花さんのおかげで定期的に頭の、思考のストレッチができてよい。面白い人だ。すきだ!

 

相変わらずダラダラ書いてるので論点ずれあるだろうし話もとんでいる。読みにくくてゴメンネ。

 

SNSと仮面の話

私の仮面って何枚あるんだろう。

現実世界にいると、ざっくりいえば家族に向ける顔、友人に向ける顔、会社の人に向ける顔、ぐらいかな。細かく言うと父と母とで向ける面は違うし、友達も相手によるし、上司と同期で違ったりするから接触機会が多い人の数だけ適切な仮面をつけかえている気がする。

SNSだとサービスによって色が違うから仮面の付け替えがわかりやすく鮮やかに浮かび上がる。Facebookは真面目な意識高いわたし。Instagramはおしゃれな、おいしいものを食べている、楽しく生活しているわたし。Twitterは脳内の垂れ流し。一番無秩序。

Twitterで言えばオタクのアカウント、短歌創作用のアカウント、プライベートのアカウント(鍵付き)の3種類を使い分けている。付き合っている相手が違うし、話している内容も違うからそれぞれのキャラクターは異なる*1

とはいえこれって自分で認識できている枚数であって、実際には他者の目の数だけ仮面はあって、「つけていると思われている」…これが矢花さんのいう自己像との乖離につながるのかな。

自己像と理想像の乖離は私も苦しむところで、今回の文章で共感できたポイント。元々「真面目だね」って言われることが多いから、仕事で期待通りのパフォーマンスができないとがっかりされそうで損しているなあと思う。あんまりよくない評判の同期がなんだかんだうまいことやって、同じくらいの成果上げてるだけなのに褒められてるのみると心の中でハンカチを噛みしめすぎてもはや引きちぎる勢い。プラスイメージでスタートするのと、マイナスイメージでスタートするのでは、着地点が同じでも相対的に上がって見えるのは後者。結局テキトーな人間が得するようにできてるのかなっていじけたくなる。

 

あと、仮面の数は多いほうがいいのか少ないほうがいいのか?という議論もあるかもしれないけれど、多いと疲れそうだし少ないと自分を守れなさそう。裏を返せば、多いと自分を守る武器(これが「最終兵器」かもね)があって、少なければいつでもありのままの自分でいられるということだから、どちらがいいとか適切だなんてこともないか。

 

矢花さんのトラウマが何かはわからないけれど、矢花さんにとっては「本来の自分」と「アイドルの自分」の境界が曖昧になることよりも、本来の自分を勘違いされるほうがこわいのかな。相手の勘違い、曲解=自己像と乖離している、ということ?

個人的には仕事が私生活に介入、侵食されることをこのまないから、職場での自分と私が認識している自分は切り分けていて、ある一定のラインからは侵入させないようにしている。だから矢花さんとはまったく真逆の考えで、仮面の内側は聖域。だからブログを読んで、自己開示の結果、面と面の境界が限りなく近づいて曖昧になることで矢花さん自身があとから苦しまなければいいな、と思ってしまった。結局は表現したいように表現して楽しく過ごしてもらえれば何よりだけど。

オタクは曲解する生き物だからこそ、極力発信されたことをありのまま受け止められるようにしたいなと思わせてくれる文章でした。

 

■はなしのネタ

思考のストレッチではないけれど、矢花さんの車のお話がききたいです。どんな車が好きか、憧れているものはあるのか、とか。あと運転しているときに楽しいこととか…私も車を運転するほうなので気になってます🚙

 

■余談

中学校の美術の授業で仮面をつくったことを一番に思い出した。それこそ「ペルソナ」という単元名だった気がする。紙粘土をベースに、シーグラスやら色々なもので飾り付けをして制作するのだけれど、ほとんどの人間は…というか私以外は、仮面を土台としてどう飾るかを考えていた。私はボロボロに割れた仮面をつくって、土台となる板にも意図的な装飾をちりばめて、仮面の内側にいる自分も表現した。当時は一人の男子にいじめられた結果クラスでの発言権を奪われていたので、うっぷんをぶつけることで現状を表現したかったのかも。まあ結局は仮面が割れた先の中身の自分が、芯みたいなものがしゃんとしていないと、何も守れないのかもしれません。

 

 

*1:全世界に発信している独り言だから、極力不快な表現は控えようと思っているけれど、それでも合わない人はいてミュートやらブロックをされると結構落ち込むタイプだったりする。自分が一生懸命繕った結果を否定されている気がするからなのかな。めちゃくちゃSNS向いてないやんか~!

異担侍日報侍ふ(矢花さん)#4_210512に寄せて

 

矢花さんのブログを読んだ。

まさか自担から、タグで考えを届けてねと…意見表明を推奨されるとは思っていなかったので戸惑っている。アイドルが発信したあらゆるもの(曲、詞、動画、写真、発言等)を解釈すること、それを発信することは、ファンの間でも意見が分かれるし、何より届いてしまう相手(アイドル)がどのタイミングでどう受け取るかわからないから正直迷った。なんならこのブログ…よくわからない概念カレーの記事とか創作短歌のメモがつまったブログに投稿することも迷った。迷ったけど、「とある人間のオタク成分」を抽出した記事にまざって「とあるオタクの平凡な人間としての生活の成分」が強い記事があってもいいだろうと思い、ここに記すことにした。続けててしっくりこなくなったらnoteでも作ろうかな。そういうわけで冗長な自語りブログだけど許してね。ブログってそういうものだし。

 

 

本題。

 ”過去に戻る”

それをしてどうなりたいかにもよるとは思うが、「現在の自分をより良くしたくて(マシにしたくて)、変化のために過去に戻れたら」という理由であれば、「戻らない」というのが私の選択だ。

過去に戻ったら現在の自分を否定する、今自分が抱えているものを手放すことになるのでそれはできない。少なくとも私は今抱きしめているものに価値を感じているからだ。

割と平和な、平凡な人生を送っているのでドラマティックなことは書けないけれど、少なくない人数に経験がありそうなことで例示をしてみようと思う。

私は大学受験に大失敗して(10校うけて何とか1校だけひっかかった)、悔しくて仮面浪人や自主退学も考えたことがある。でも「今自分が得ているもの(友人や学び)」と「仮面浪人して成功/失敗した場合に得られるもの」を比較したときに魅力を感じたのは前者…今の大学、環境でやりきることだった。勉強もやりたいことも趣味も全部やってやる。そう決めて過ごしはじめてからは同じ環境にいても楽しいと思える瞬間が増えたし、漫然と4年間を過ごさずに済んだ。次のステップを選択するタイミングである就職活動では自分なりに大学受験の時の失敗を分析したり、自分が選んだ選択…その大学に居続けたことで得られた経験をもとに面接での回答を組み立てたりして、結果第一志望に受かることができた。

大学入学時点では失敗だと思っていた状況を、自分の考え方を変えて、行動を変えたら、4年後に成功だと思える状況が待っていた。この経験は私にとってものすごく大きかった。

もちろん就職してからしんどかったこととか精神的に病みかけたこともあるけれど、納得して自分で決めた道ということもあり、今の会社を選んだことを失敗だとは思っていない。ただこの不安定な時代、いつ会社がなくなるかもわからないので自分の足で立つ努力を怠ってはならないなと思う。

成功/失敗だと思える状況」とさきほどからしつこく書いているのは、時点が変われば見方が変わるからだ。成功だと思える状況である今が崩れないように、今の時間を未来のために投資することを怠りたくない。これは数年後数十年後の自分が、過去に戻れたらと絶望することがないように、現在地の自分から未来に向かって届けられるささやかな贈り物のようなものだと思っている。 

 

ただ、「自分の現在地を変えるほど影響はないけれど、もう一個の選択肢を選んでみたかったかも」ということはチラホラある。RPGでいうと、ストーリーは変わらないけれどもらえるアイテムやパラメータが変動する感じ。

人がイジメられているのを見てみぬふりしないとか、電車内でトラブルにあったときに加害者に言い返すだとか、嫌なものを嫌と断るとか。

「あの時ちゃんとできていれば、自分の中にある影の要素が減っていたかも」とふと考えることがあるが、失敗して得る感情、わかる立場があることで人に対して寛容になれるのだと思うから、これもやっぱり過去に戻るという選択肢はとらないかな。戻ったところですべてのパラメータが上がるわけではないし。

仮に戻れたとしても、私の性格上どこかで努力を怠ったり、その道の狭き門をくぐれる可能性を信じてあげられなくて、結局似たようなベクトルの位置に収まっていただろうなと想像する。結局、自分が幸せだと感じられる未来を選びとる瞬間はいくつもあるけれど、その中でも特に大事な選択について、しっくりくるものを選べていたら、それでいいんだと思う。*1

ダラダラ書いてしまったけれど、戻れたとしても、自分の性格のネッコの部分は変わらないまま色々な選択をしていくわけだから、ドラスティックな変化は望めない⇒「現状をよりよくするという観点だけで言えば、過去には戻らない」というのが私の意見かな。

 

このブログを書きながら、同期が言っていたこんな言葉を思い出したりもした*2

「〇〇が40になった時に、今の選択を後悔したり、人を羨んだり、自己肯定感が下がることがないようにすればいいんじゃない?」

結局これに尽きるのだと思う。

 

余談:矢花さんのブログを読んで、 昔フジテレビ系列でやっていた『ロス:タイム:ライフ』というドラマを思い出した。オムニバス形式のドラマで各話の主人公が死ぬところから物語が始まり、各々の後悔を人生のロスタイムの中で晴らすというもの。過去に戻ることとは時間軸の取り方が違うけれど、ある種人生のどこかにキューを置いてやり直しているドラマだと思う。DVDかオンデマンドで見れる。私は第3話のスキヤキのはなしと、第9話のひきこもりの話が好き。

ja.wikipedia.org

 

*1:そもそも現状が死にたいほどつらい人にとっては、手放したいものだらけだろうから過去に戻る選択肢がとれたらいいのかもしれない。生まれる家は選べないし、スタート地点でハンデ付きなんてザラだし。私が語るべきことではないが

*2:背景としては、年齢的に結婚とか考えるけどそもそも恋愛したくないし向いてない、でも世間からの風当たりが強くてしんどい…とぐるぐる悩んでいた私に同期がかけてくれた言葉