とけないこおり

好きなものへの気持ちを素直に

モボ朗読劇 怪人二十面相 観劇メモ・感想

※久方ぶりにビール(水曜日のネコ)を飲んでいるので支離滅裂だったらごめんなさい

※最後のほうとか大分迷子。

※極力まっさらな状態、自分の思いに素直なまま書きたいので6/30矢花さんのブログは未読の状態で書いた。思考の整理のためにフォロワーさんと議論することは少しだけおこなった。

 

本記事は6月下旬に品川・ステラボールで催された標記朗読劇について、観劇しての疑問点、それに対する個人的な考えや要素をまとめておくものである。なのでひどくまとまりがない。

私は普段本を読まない。読書せねばと思うものの習慣がない。読書で没入する感覚は小学生くらいにおいてきてしまった。だが大人になって…社会人になって周りを眺めていると、お勉強ができることももちろん大切だが、教養のある人というのがとても魅力的に映るようになった。自分に教養がないと感じるからである。

そんな人間が書くことなので、薄っぺらいかもしれないし、ありのままをうけとめただけになるのかもしれないのだが、それが私の感じた二十面相のひとつなんだと思うことにする。そしてこの劇は、人が見て感じたことやこういったアウトプットの違いに対して人が何を思うのかさえも問うている気がする。(そして矢花さんのブログ、面はいくつあるのか、という話に戻る…)

 

【脚本について】

てっきり原作の一つをなぞっていくような舞台だと思っていたが、抜粋にサンプリングに抄録に、あらゆる表現で引用に類することが行われていた。おそらくこれは脚本家の鈴木さんが表現したい明智/二十面相(/小林)のキャラクター像のあぶりだしであり、文学の論文の一部を読んでいるような…朗読劇スタイルで意見を述べているようなそんな感覚である。(本を読まない人間の私は、ここで少し安心した)

演者にはそれぞれの2つの役があてがわれている。「アマチュア推理作家/明智小五郎」「推理小説ファン/小林少年」「文芸評論家/江戸川乱歩」「江戸川乱歩研究家/怪人二十面相」……劇中は役を行ったり来たりしていて、とくに前者の役を演じているシーンについては読書会を覗いているような気持ちになった。

 

【冒頭のセリフに関する考察】

男が「明智は二十面相で、二十面相は明智」とつぶやきながら登場する。そのあとこのようなセリフがある(要約)。

「あの男はあなたであり私であり、彼であり彼女であり、誰かであって誰でもない。それは電子が粒子であると同時に波動であることを思い起こさせる。あの男は永遠に瞬間を生き続けるのである」

前半部分はなんとなくわかるような気がする。ひとりのなかにある複数の顔。あるいはまったく違う人間同士でも(それが嫌いあう人同士であったとしても)本質的に似てしまっているようなこと。陰陽のバランス。中庸。この世の中にある「バランス」と「二面性」のさまざまと捉えた。ただ電子、粒子、波動ってなんだ???

こういう時は文明の利器、仮想空間にある偉大な英知に頼るに限る。「電子 粒子 波」とGoogle検索をかけると、「電子を細かく見ていくと粒子なのか波動なのかという議論がずっとなされてきた」という話がでてきた。なるほど物理化学か(履修していない)。

「電子だけでなく,いままで粒子であると思っていた物質は一般に波動としての性質を持っている。そのような波動を物質波という。物質波の波長が十分短ければ,粒子と見なして差し支えない。この物質波の考え方は,光量子の裏返しとして, 1923年に de Broglie によって提唱された」

だからこれも…粒子と波動の関係性も前段と同様対立ようにみえて実は近しいところにあるものどうしだった、という話の一例としてあげているのだととらえた。

 

【2つの「別れの歌」「練習曲作品10-3 (ショパン)」】

二十面相をメインに演じる栗原さんと、明智をメインに演じる矢花さんが同じ曲を歌う。前者は情感たっぷりに、後者は低音と高音を交互に響かせる点が印象的。

・なぜ「別れの曲」なのか

「別れの曲」は映画の邦題から呼ばれている通称で、元々はただの練習曲番号がタイトルである。単純に数々の面との「別れ」あるいは、どこにいったか分からない本来の自分との「別れ」のイメージで使用したのか、映画「別れの曲」からなにかインスパイアされたのか。ここは考察が深めきれていない。 

・なぜ歌い方が違うのか?(複数の「面」を表現する歌ならばどちらも同じ歌い方になるのでは)

1回目の二十面相の歌を聞くと「己の顔さえ忘れて」に非常に重みを置いて歌っていたように感じられた。私はこの時の曲は「変装していないむき出しの二十面相としての胸中」と感じた。あるいは「変装に疲れた二十面相」。

2回目の明智の歌は高音と低音の往来がとにかく激しいのが印象に残る。演者本人もそんな二面性を楽しんで歌っているように感じられた(高音の時は特に意識的に小指を立てている。低音の時もたっていたので深読みのし過ぎ、本人のクセかもしれないが…)。明智は複数の顔を持つこと、変装することに疲れを感じていない、面白がっていられる、という表現とうけとった。

 

【死のイメージについて】

前半に明智怪人二十面相にむかって「お前のことをピストルで撃てる」と言っておきながら(そのうえ二十面相が人を殺さないのには感心する、自分だったらできるかどうか…とも語っている)、後半の二十面相との対峙のシーンでは「明智は「死」のイメージを排除している、それが自分との違いだ」と二十面相に言われている。そのうえ明智は火薬からは逃げる。これはどういうことなのか?

まず考えられるのは前半の話(人を殺せる明智)がただの虚勢であるということ。あるいは「死」のイメージの排除とともに「自分の生」に対する執着がものすごく強いのではないかということ。そして、仮に【冒頭のセリフに関する考察】でも書いたように2人の存在が陰陽の関係であるとするならば、片方が消えてしまえばもう一つは存在しえないということであるから、「自分の生」に対する執着が強い明智は、陰陽の片割れである二十面相を殺せないことになる。

 

【奥の手って結局何?】

明智はこのようなことを舞台中発している。

「二十面相に奥の手があるなら僕にもそれに劣らぬ奥の手がある」

単純に舞台上の表現を受け取れば、二十面相の「奥の手」はあらゆるからくりや仕掛けを使うことで、明智の「奥の手」は後半にでてくる影武者、すり替えのことなのか?と思うが、それ以上の何かがあるのではないかと思う。

最後のシーンで二十面相は火薬を使い、「死」を選んだととれる表現がなされている。二十面相の奥の手とは、常に「死」をイメージし、「死」へ飛び込む勇気があることなのか?(あらゆる変装の手段のうちの一つを捨てる勇気)

逆に明智の奥の手は先程から執着あると感じている「生」が奥の手なのだろうか?(あらゆる変装の手段を使って永らえてやるという意地、意志)

 

【冒頭と最後のセリフ】

非常に似たセリフが冒頭と最後に出てきて、演劇全体を挟み込んでいる。冒頭では遠藤平吉、最後には明智小五郎の名前が登場するが、それ以外の部分は同じセリフ。このシーンの矢花さんは一体だれを演じているのか。

劇中に矢花さんだけでなくあらゆる演者が二十面相を演じるため、冒頭・最後のシーンの発言者が明智である可能性も二十面相である可能性も十分に考えられる。以下の表のように。

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どれが正しいとかはないと思っているのだけれど、それぞれのパターンで登場人物の状況がどのように描き出されるのか、個人的な考えを記しておく。

①が一番スタンダードなとらえ方だと思っていて、私自身最初は発言者の組み合わせはここだろうとおもった。明智は二十面相に、二十面相は明智に対して、お互いがいなくてはあらゆることが成り立たなくなる、遠くて一番近しい存在と考えている、そんな思いの表出ととれる。

②の場合は発言者が両方とも明智になるが、冒頭はライバルである二十面相に対する問いかけ、最後はそのライバルが「死」という奥の手を使ったあとの独白になる。最後に関しては陰陽の片割れを失った明智が、片割れである自分自身の自我を保とうとして発している言葉に思えてくる。

③だとすると冒頭が二十面相自身の自己紹介になり、のちの別れの歌で「己の顔さえ忘れて」いる二十面相がより強く浮き出るように思う。①と③のパターンの場合、最後が二十面相の独白になるから、途端に前段で「死」を選んだようにみえた二十面相が「生きているかもしれない」状態が示唆されて、「明智が片割れだけになってしまった」という虚無感よりかは「自分の生に執着のある明智が存在するのに必要な片割れがいる」安心感が訪れる。

④のパターンだと、発言者が話の主語になる。二十面相は自己紹介によって明智に対して宣戦布告をしているようにとれるのに、明智はそうではなくて、二十面相の「死」の表現の後だからかとにかく不安定さや喪失感が際立つのは私の気のせいだろか。

最後の笑いにフォーカスをあてれば、①③は死んだように装ってみせた二十面相の勝ち誇った笑いであり、②④は片割れを失った明智がバランスを崩した結果の狂いではないかと考える。

 

【「最大の敵は最高の理解者」というワード】

SPOTムービーにもあったこのワードの意味するところは?

つまるところ自分自身が甘くも厳しくもなれる最大の敵であって自分が自分のこと一番よくわかってるよねという話にもとれるし、対立しているような近しい人(ライバル)が自分の写し鏡のようなものなのだから、しっかりと向き合うべきなのだ、という話にもとれる。自己実現の話?

 

【誰かであって誰でもない】【読書とは】

冒頭の明智のソロの歌詞に出てくるこの言葉。そして、舞台終盤に語られる読書についての表現「いずれにせよ読者がいる限り 明智も二十面相も永遠に瞬間を生き続ける。…乱歩の手を離れ 明智も二十面相も、個々の読者が新たに生み出す…読書とはそういう作業なのである」

あの舞台を見た人間の数だけ、脚本についても、登場人物そのものについても、舞台上のあらゆる表現についてもすこしずつ異なる解釈が生まれている。そのどれもが自分にはない視点を含んでいるから、読書会のように感想が語られているさまをみるのは大変興味深い(だからこそ極力まっさらでいたくて、この記事を書くにあたり他人の影響を受けないよう努力はした)。だからこそ「解釈」そのものこそ、個々が新たに生み出した登場人物の余生たる「瞬間」なのだと思う。

余談;個人的にはこれを読書ではなく、主演の矢花さんの本業であるアイドル活動に置き換えた時にも当てはまるような気がしている。なにかのパフォーマンスをしたとき、それぞれのファンがあらゆるツールを用いて表現するけれども、そのどれもがその瞬間を生きていた矢花さんであって、一方でそのどれもが本当の矢花さんではない、というように。

⇒それは果たして矢花さんなのか?そして決定的に違うのは彼が本の中の登場人物ではなく、現実世界の人間として存在するということ。各々のファンの中で瞬間を生き続ける矢花黎と、本人の表現した一番自分に近い矢花黎には乖離が少なからず生まれるわけで。先日のブログではこれを防ぎたいって話をしていたのか…?整理はできていない

 

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今回はあくまでもセリフや発言に重きを置いて、自分の中で考えを深めたいところを記していったのだけれど、朗読劇ゆえにシンプルな舞台ながらも、照明による演出、場面転換、なによりも音による空間づくりに圧倒されました。見たことのない楽器。何を表現したくてどのような音を求め、何を用いたのか。演者の声のサンプリングを用いた頭がイカれそうなあの時間も麻薬のようで最高でした。

演者の皆様4名だけでなく、朗読・歌唱による「発声」以外の音を作りこまれていた大嶋さん、あさいさんのお二方、照明、衣装等の舞台スタッフをはじめとした劇場スタッフのみなさまへの敬意をこめて、駄文ではありますがしたためました。今後もゆっくり咀嚼しながら、しばらくの間は生活の中で劇中歌を脳内再生して過ごすのだと思います。私の中で、彼らの瞬間を生き続けさせるために。