とけないこおり

好きなものへの気持ちを素直に

トリミングの解

結論はないし、人と話してなんか違うなあと思ったらこそこそ書き換えるかもしれない。

 

■アイドルをどう受け取るか、切り取るか、発信するか

「アイドルに対する切り取り方の差異」というのは、特定の誰かに限ったことではなくそれぞれのアイドルにあることなのだけれど、今の担当に関してはその差異が顕著で、かつ他者の切り取り方に対して合わないと感じている人が多いように思う(この話は後述する)。

これまでの担当だった櫻井くんや相葉ちゃん、有岡くんに対して、フォロワーとここが素敵だね、あそこが素敵だねとキャッキャ話していた時よりも、今の私は少し気を遣って発言しているのは明らかだ。このように感じるのは私自身の変化も要素としてあると思っている。社会人という立場や年齢を気にしてることはもちろん、昨今の性差をとりまく意識改革にあわせて自分のこれまでの当たり前をスクラップアンドビルドする過程にいるので、すこしでも気を緩めると前時代的なわたしが顔を出す。それを防ぐために少々気を張ってつぶやくことは増えた。

あるいは、今応援しているグループを応援し始めたばかりのころにお話させていただいていた方に、次第に距離をとられた経験がある。理由を考えてみて行きついたのが「相手にとっての矢花黎像と彼に対するまなざし」を私は受け入れられたけれど、「私にとっての矢花黎像と彼に対するまなざし」は相手が受け入れ難かったということだった。私のつぶやきが他の方よりも違うことを言っているとか、やたら尖っているとかは自分ではわからなかったのだが、自覚できない要素…自分の言葉やネット上のふるまいに人を不快にさせる要素があるのだと自省せざるを得なくなった出来事だった。*1

と、このようにこれまで書いたようなことが重なって、アイドルに対する発言に少しだけ気を遣うようになった。同時に、少しだけタイムラインを俯瞰するような気持ちも持ち合わせるようになって「量産か否か」以外にも色々なオタクがいるなあと改めて思うようになった。そのうえで考えたいのが、担当に対する切り取り方やまなざしの差異が生まれる要因である。

 

■「矢花黎」とファンの受信・発信

矢花さんは不思議な人だ。Twitterでタグを作って双方向のやりとりを図ろうとしたり、ブログに自分の脳みそをひろげて、それに対するファンの考えや感想を求めて何かを得ようとしている。また、我々ファンの描く各々の「矢花黎像」と彼の認知している自己との乖離を埋めようとしている。こんなにも人間である自分を表に出すアイドルはこれまでにみたことがない。彼のアイドルとしての営みはもはや壮大な実験であり、痛みを伴うもののように思えてならない。そして、彼から発信された内容にどのように反応しているかに関わらず、ファンはすでに実験に巻き込まれている。

アイドルを好きな人、応援する人ひとりひとりに個性があるのだからカテゴライズするのも失礼な話かもしれないが、「矢花担」に関しては他のアイドルよりも細かく分類したうえで同じ所に属する者同士でも、各々の「矢花黎像」に乖離があった場合に互いを受け入れられないケースが多いのでは?と感じる。これは何かの統計を取ったわけではなく、感覚的なものにすぎないが。

「バンドマンの彼が好き」/「アイドルの彼が好き」

(「元々バンドが好き」/「元々ジャニーズが好き」も近い)

「彼の発信に見える形で返事をする」/「見える形で返事をしない(すべきでない)」

「リア恋としてみる」/「リア恋としてみない」

「アイドルと対等にいようとする」/「アイドルとファンは対等ではない」

「結果を出すために数と金で応援をする」/「数と金にまかせたムーブメントには賛成しかねる」

「彼(ら)をおもしろコンテンツとして取り扱う」/「取り扱わない」等々…

じっくり考えればまだまだ色々ある気がする。1、2点目以外は比較的他のアイドルに対しても言えるような気がするけれども。

こういった「応援や受発信のスタンス」である程度棲み分けをしたうえで、矢花さんの発信にファンが表立って反応する場合、次に問題になるのは「行動の結果表出するものの内容(ブログの感想文等)」だろう。応援するスタンスはある程度同じ方向性の人間を見つけられても、個人としての生い立ち、背景が異なる以上は表出する内容まで方向性があうわけもない。所詮ネットがなければ出会っていない者同士、顔を合わせて話をしたこともなければ尚更、「リア友」との同じようなやり取りよりも受け取った文字列に対して抱く感情は希薄になり温度感は低くなる。

彼の発信に対して、彼の意図する思考のやりとりをしようとするとき、他人との「矢花黎像」「まなざし方」の違いが可視化される。つまり、彼が自己とアイドル像の乖離を埋めようと発信することで、色々な人間の思考が表舞台に引っ張り出され、それが(応援のスタンスによっては)ファン同士で受け入れがたいものになることもある。他の人を応援していれば表に出す必要がなかった要素さえ、陽のもとにさらさなくてはいけないケースもあり、スタンスだけではない根本的な人としての違いが可視化されてしまう。

双方向性のあるやり取りの中でファン側の打ち返しによって生まれるものは様々だが、彼の場合は他のタレントとやりとりした時の”それ”よりも機会が多く、ひとそのものをむき出しにした結果であることが多い。私たちはサンプルを差し出すのか、否か。サンプルの取り扱いを見守ることが苦しくないか。他者のサンプルを受け入れられるのか。彼の要望(意見・意志を表に出していこうとファンに促すさま)に応えようとすると生まれる可能性がある不和がそこに横たわっている気がして、少しだけ表出におじげづく自分もいる。

とはいえ私は、矢花さんがくれる機会を使って思考を少しずつ表出させながらも、他人の思考や視点に触れて世界が広がるのを感じる。それを「おもしろい」と思っているがゆえに、より深く思考して苦しんでいる人たちや他人の思考に触れて疲れている人たちを見ると何とも言えない気持ちになる。他人の思考や視点に正解も不正解もないから、ああ君はそうやってトリミングしたのね、素敵ね、という気持ちでいることで自分を保っている。ネットのノリで面白がる勇気もなければ、哲学的に深く深く掘り下げる気合もない私は、結局どっちつかずでいて、俯瞰している「ふう」を装っているのだ。もしかしたらとてもずるいのかもしれないが。

言葉は劇薬。ゆえに思想のサンプルが散らばったタイムラインも劇薬だらけの棚である。思想の深淵にのまれないように、その見えている池に身投げだけはしないようにしながら、様々にちらばる劇薬ともうまく付き合えるスタンスでいるというのが私なりの解かな、と秋の夜に思考を巡らせるのだった。

*1:この件のようにネットの友人との距離の詰め方が下手な自覚はあるし(急に距離詰めがち)、先程の話を持ち出しているのも良く感じない人がいるだろうから、お前そういうとこだぞwwwと思われていそうでややビクビクしながらこの話を書いている…(念のため言っておくと攻撃の意図はなく、読者の方が飲み込みやすいように説明的にこの話を持ち出しているにすぎないし、発言する時に少しだけ内省するクセがついたのはこの方のおかげなので感謝している部分が大きい)