とけないこおり

好きなものへの気持ちを素直に

#異担侍日報侍ふ vol.34_211208 をうけて

矢花さんの”思考系ブログ”は、矢花さんへの返信を考えるときに自分を解体して見つめなおす作業ができるので、好きです。一定数いると言われている、嬉しがってる人間の一人ですね。

 

普通でないことは「発見に満ちていて」「縛られるものがない」ということだと思っています。でも本当にそうなのでしょうか。

矢花さんは未来志向的に「普通とは何か」「普通/普通じゃないをどう選び取るか」という話をしていたので、だいぶ趣旨はずれますが、私は「他人によって形成されてしまった普通/普通じゃない感覚に苦しめられているときどうしたらいいのか?」という問題提起をします。ここで解決する気はないです。だって書いているわたくし自身がそれに困っていて答えが見つかっていないのですから。

 

 

私は昔から手のかからない子だったらしく、幼少期こそ無意識に、物心つくと意識的に「いい子」で過ごしてきました。勉強はできたほうがいいし、先生には怒られないほうがいいし、目を付けられないほうがいいし、人には嫌われないほうがいい。普通でいるということが枠からはみ出ていることだとするならば極力周囲と「なじむ」努力をすることが自分にとって得だと思って生きてきたのです。

 

ブログで矢花さんが書いていたような、そういった後天的に獲得する「普通であろうとする意識」とは別に、先天的な部分や本人が選択に関与していないのに「普通な部分」「普通ではない部分」というのができるのもまた事実だと思っています。好きでもないのに生まれた家庭環境や、他人の気まぐれが作用して得た経験などです。

 

日本における、子のいる世帯のうちふたり親世帯の割合 9割程度*1

高等学校から大学進学する子どもの割合55.4% *2

大学進学したうち就職する人の割合 約9割 *3 

割合だけの話であまりにも乱暴な言い方ですが、少数派をイレギュラー、珍しい(自分で書いていてこの表現が正しいとは思っていません)と表現してしまうならば、父親も母親もいる家庭に生まれ、大学までありがたいことに進学させてもらえ、就職できた私はいわゆる普通の人生を歩んでいるといえます。そうではない何%かには該当せずに、場合によってはある種の優位性を得た状態でそれに気づかないまま過ごしてきています。普通でいるということは、そうではない人たちや少数派の人たちの立場や存在を忘れてしまうことがあるということで、静かな、血が飛び散ることもない、でも確実に暴力的なことをしてしまっている可能性が往々にしてある…そんな危険性をはらんだ「普通」というのも、きっと世の中には多く存在していることでしょう。

 

先程自分の歩んだ人生が普通だと表現しましたが、普通じゃない要素を後から自覚させられたり、気づかされることもあります。以下2つ、個人的な経験から例を示します。

【①家庭環境】私は「働く母と専業主夫の家庭」育ちですが、大学に入ってジェンダー社会学の授業で多くの同級生が「働く父と専業主婦の家庭」(あるいは「共働き」)を一般的と考えていると知って非常に驚きました。たしかに、父親が働いていないことで世帯収入が低く、大学の受験先を絞らないといけなかったため、「何でほかの家みたいに働いてくれないの、お金稼いでくれないの」と思ったことは多々ありました*4。そんな家庭環境の珍しさに対して意識的にフォーカスするきっかけが大学の授業だったわけです。

 

【②恋愛】(アイドルブログへの意見で恋愛の話ってどうなのって自分でも思うけどこの後言いたいことの前フリだからあえて書きますが)大学の時に過ごしたコミュニティは女友達同士で遊ぶことばかりで、皆異性と遊ぶ、お付き合いするよりも勉強や趣味に打ち込むタイプだったので、「付き合ったことがないこと」を気にすることはありませんでした。でも社会人になりそれぞれの新しい世界に進むとそれなりに出会いがあったりして、久しぶりに会って話すと人並みにみんな恋愛しているわけです。私が同じような人種だと勝手に思っていた人たちはきっかけがなかっただけで、チャンスがあれば、その気になれば恋愛できるベースの持ち主たちだったのです。その時に、恋愛できない自分は普通じゃないと強く感じました。

「恋愛できない」もっと正確に表現するならば「人を好きになることがないわけではないがその頻度が極端に少ない」「友人と恋愛対象の線引きがわからない」「なんなら恋愛感情を気持ち悪いと感じることもある」そのほか負の要素を多く考えてしまうため、一般的なデートにいくタイミングやノリで付き合う感覚に全く共感ができない、といったところでしょうか。

これで何が困るかというと、例えば世間一般で共通の話題にしていいと思われている恋愛トークにおいて、同じ日本語を話しているのに全然わからない言語を話されている気分になり、疎外感を感じます。「恋愛をしていたほうが友人や家族関係とは異なる他者とのかかわりをもてているのだから、人間とともに支えあう素地ができているのだから優れているのだ」といわれているようで、自分が欠陥品なのでは?と思わされるし思ってしまうのです。こういうことが日常的に起こる度に、私は「普通からの暴力をうけたなあ」と感じています。

 

普通でないことの苦しさは、少数派になることで得られない権利が発生することだと思います。なにがしかの我慢をしたうえでさらに、選択肢の少ない中からどうにかしなくてはいけないのですから、冒頭に書いた発見のチャンスは狭まるリスクがあるし、縛りだってある。そのうえ多数派の常識を理解できない、あるいは理解できなくても共感するポーズをとらなくてはいけない。これも苦しさの一つではないでしょうか。

 

何が言いたいかというと、先に書いたような家庭環境や恋愛に対するスタンスは自分で選び取った結果ではなく、他者の影響が大きいと考えます。生まれた時から我が家は専業主夫家庭かつ収入は少なかったし、恋愛に対するスタンスは、望んでもないのに異性へのトラウマを抱えざるを得ない出来事が複数あり消極的にならざるを得ませんでした*5

あるポイントに対して普通をとるか、そうでない手段をとるかを選択するよりも前に、「他人のせいで」自分のスタンスが形成されてしまっていた場合、そこから抜け出すのはとても困難です。「スタンス:普通」の人が「スタンス:普通でない」を選ぶには矢花さんがブログで書いていたような「立つ」責任が生まれますが、「スタンス:普通でない」人が「スタンス:普通」になるために、他者によって形成されたものを壊すのもまた非常に骨の折れる作業だと思っています。立つ責任を持ちたくもないのに、どうにかして自分のアイデンティティ形成の中でなじませたりケンカさせたりする必要があるのです。

 

家庭環境に関しては、就活を経て自分で稼ぎを得るようになったこともありあまりきにならなくなりましたが、恋愛に関しては周りの状況が日に日にかわりますし、SNSで他人の近況が見えやすいことで、余計不安になるのかもしれません。おそらく、他者によって勝手に形成された「普通でない状態」を受容するには、他人が気にならなくなるくらい自己肯定感をあげるしかないんだろうなあと思っています。でも、じゃあどうやって?………手段を探る問いは延々と続きます。

 

これを読んでいるあなたは他者によって勝手に自分の中に形成されていた「スタンス:普通でない」を「スタンス:普通」にするために、それをどうやったら壊せると思いますか?あるいは、それも自分なのだと受容するにはどういった手段があるでしょうか。方法がたくさん見つかれば、ラクに生きられる人が増えるんじゃないかなあと思い問題提起します。

 

*1:厚生労働省 https://www5.cao.go.jp/keizai2/keizai-syakai/future2/chuukan_devided/saishu-sankou_part6.pdf 

*2:文部科学省 令和2年度 学校基本調査(意外とマジョリティってわけでもなく半分くらいなんだな…)

https://www.mext.go.jp/content/20200825-mxt_chousa01-1419591_8.pdf

*3:厚生労働省文部科学省調査をまとめたもの→ 図録▽就職内定率の推移(大卒) 

*4:男だからといって働かなくてはいけないわけでもないので、父親に対しては暴論を向けていたなと今となっては思う

*5:トラウマに関してはアドラー心理学(『嫌われる勇気』など)が有名ですが私にはハラオチせずなじみませんでした